2017/04

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 この著作においては、既存のキリスト教会への批判が、〈隠された主題〉でありつつ、ただそれ以上に、この〈隠された主題〉を謂わば覆っている〈信仰論〉が、信仰についての本質を明らかにしている。つまり、キリストが神であること、すなわち、信仰の対象であること、このことについての言わば〈信仰論的〈証明〉〉とでも名付けられるような内容なのであり、またそもそも〈信仰とは何か〉についての著作と言えるかもしれない。

いや、〈信仰論的〈証明〉〉はできない。なぜなら、信仰は信仰によってのみ信仰である。信仰とは、換言すれば、信仰の対象を単独者としての〈我が〉主体と統一させることである。これによってのみ、信仰は真の信仰となる。


翻って己れ自身を鑑みるに、私は宗教者ではない。このことが如何に悲惨であるか。そしてこの悲惨さを取り除くためには、聖書を読むしかないのか―――。

この著作を真に捉えるためには、またこう言ってよければ、この著作を読むことが有意義であるためには、キリスト教は不可欠なのか―――。

さらに換言すると、現代、例えば日本という国において、特定の宗教を信仰しない人々が大多数であろう状況の中、換言すれば、〈キリスト教という(この著作の本質である)要素を排除して〉この著作に意義を見出すことができるのだろうか。

例えば、この著作からキリスト教という要素を排除したとする。そうすると、この著作の〈キリスト教を信仰する〉という主題から残されるのは、冒頭でも述べた通り、〈信仰するとは何か〉であると言えよう。

では、やはり問いが繰り返されるのだが、〈信仰するとは何か〉をキリスト教を排除した上でこの著作から学ぶだけでも有意義なのだろうか。キリスト教とは別の仕方で、あるいは宗教とは別の仕方で、換言すれば神を信仰するとは別の仕方で、単独者にとしての個々人の信仰の対象を確立し、その対象と自己との同一視という主体を成立させることを学ぶことが有意義なのだろうか。―――このことは通俗的にはあまりにも悲惨な状態である。なぜなら、あくまで信仰という要素を残すのであれば、個々人の信仰の対象を確立することは、個々人が神でなければならないからである。個々人が信仰の対象を確立しつつ己れ自身がその信仰の対象であるという、このような〈強さ〉を、われわれは現実的実際的に持ち合わせているとでもいうのだろうか。

そもそも、このような〈強さ〉を否定するために、神が想定された、否、神が在り給うのではなかろうか。

したがってやはり、この著作からキリスト教を排除するのは、有意義ではあるまい。当然である。これは、キェルケゴールにとっての真の宗教であるところのキリスト教において信仰するとは何か、が述べられた著作である。少なくとも、キリスト教とは別の宗教における信仰と比較した場合、キェルケゴールにおける信仰は真の信仰と言い得るか否かを問うことはできよう。ただ、あくまでも〈宗教なしには〉この著作の主題を応用することは不可能である。

したがって、この著作で以って出発点とされるのは、〈宗教とは何か〉という問いである。宗教は人間の本質であり得るのか、あるいは、宗教とは別の仕方で(つまり信仰ではない仕方で)人間の本質を確立させることは可能か否か、この問いが発せられなければなるまい(また、その前に『我が著作活動に対する視点』と『武装中立』を読まねばなるまい。しかし、ざっくばらんに言えば に   たことをきっかけに読み始めたキェルケゴールに4年も歳月を費やさねばならぬとは! そしてこれからも読まねばならぬとは!)。

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1.非キリスト教界における信仰について
2.宗教と芸術について


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