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・キリスト教の修練 24 - 2(2012/02/18)
「「もし私の生が汝の眼を真理に対して開くことができぬのなら、
  真理とは何かということを汝に語るのは、
  私にとって何よりも不可能なことである。
  私が他のすべての者と異なっているのは、
  この問いに対する他の者の答えが全然正しいというようなことはもとより決してないのに対して、
  私はこの問いに対して絶対に答え得ない唯一の者だという点にある。
  それは私が真理で〈ある〉からである」」

 「従ってキリストは、

 真理で〈ある〉ということが真理とは何かということの唯一の真実な説明であるという意味において、
 真理であり給う。
 ゆえに、
 人は一人の使徒に、
 一人のキリスト者に、
 真理とは何かと問うことはできる。
 するとその使徒、
 またはキリスト者は、
 答えとしてキリストを指し示して
 「彼を視よ、
  彼から学べ、
  彼は真理で〈あり給うた〉」
 と言う。
 それはすなわち、
 キリストが真理であり給うという意味においては、
 真理とは、
 諸命題の総和、
 概念規定等々ではなく、
 一つの生であるということである」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第三部 五)

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「諸命題の総和、概念規定等々ではなく、一つの生」が真理であること。
これはすなわち―――、
〈真の生き方とは何か」〉と問うた場合、
その答えとしてキリストの生そのものを挙げることのできる、
という意味であろうか。

その場合、〈正しさ〉と〈真理〉の関係とは何か。
この辺りは、
原文を当たらねばなるまい。

-----

「真理の存在とは、
 君における、
 私における、
 彼における〔真理の〕二重化である。
 すなわち君の生が、
 私の生が、
 彼の生が真理に向かって努力しつつ、
 可及的に真理を表現するということである。
 君の生、
 私の生、
 彼の生が、
 真理に向かって努力しつつ可及的に、
 真理がキリストにおいてあったように
 (なぜならキリストは真理であり給うたから)
 真理の存在であるということ
 ―――一つの生であるということである」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第三部 五)

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(いわば目標のようなものとしての)真理へ向かって努力すること、
このことが真理そのものである。
すなわち、
真理には2つの真理が
〈含まれており〉、
故に真理は「二重」なのである。
ということなのだろうか。

  と   に対してあれこれこういうふうに思惟しようというのではなく、
  と   もに対する〈  の  〉を常に実践し続けること、
これが俺にとっての真実だとでもいうのであろうか。


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