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 (ここにはいわば、キェルケゴールの〈真理論〉とも称されるべき内容が展開されている)

(キェルケゴールの〈真理論〉がどのような思想的影響を受けて成立しているのかを解明せねばなるまい)

「真理は、
 人が他の人の助けを借りて、
 無造作にわがものにできるというような種類のものであろうか。
 無造作に、
 というのは、
 その真理を彼のために獲得してくれた人が育てられ試みられたのと同じように戦い苦しもうとしないで、
 ということである。
 真理を眠ってわがものにし、
 夢みてわがものにすることが不可能なように、
 たとえ人がどのように眼を覚ましていても、
 真理を同様に不可能ではないであろうか。
 言いかえれば、
 真理には、
 獲得を省略してくれるような簡便法というものは、
 存在しないということ。
 むしろすべての時代は、
 また時代のなかに住むすべての人は、
 本来最初から始めなければならないのだということ。
 これらのことを、
 もし人が理解しないならば、
 また理解しようとしないならば、
 彼は真に眼を覚ましているだろうか」

「なぜといって、
 真理とは何であろうか。
 またどのような意味において、
 キリストは真理であり給うたのであろうか」

「キリストの生が真理であったからである。
 それゆえにこそ、
 キリスト御自身
 「我はこれがために生れ、
  これがために世に来れり、
  即ち真理につきて証せんためなり」
 と語り給うのである。
 地上におけるキリストの生、
 この生の各瞬間が真理だったのである」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第三部 五)

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真理とは「キリストの生」である。

すなわち・・・、
真理が単独者
(すなわち、それぞれ現実的(あるいはこう言ってよければ具体的)に存在している個人)
によって獲得されるものであるなら、
キリストの生は、
キリストによって獲得された生であるがゆえに、
真理なのである、
と言ってもよいのだろうか。

ただ・・・、
ここには一つの疑問が未だ残る。
即ちその疑問とは、
〈何にとっての? 対しての? 真理〉
であるのか、
という問いである。

キリストの生が真理であるとは、
キリストの生が生本来お在り方である、
とでも言い換えられる意味での真理なのであろうか。

このような疑問が残る限り、
キリスト教を信仰することなど毛頭不可能なのであろうか。 


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