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「彼は助けを要する者を、
 自ら探し求め給う。
 (中略)
 ほとんど叫ぶように、
 来れと語り給う」

「彼は、
 呼ばれもせぬのに、
 (というのは、助けを要する者を呼び給うのは彼であり、
 彼らに助けを与え給うのは彼なのだから
 自ら来り給うのである」

「「〈すべて〉・・・・・・来れ」」

「真に助ける力を持ち、
 真にすべての者を助ける力を持つただ一人の方であり給う彼は、
 なんの条件もつけ給わない。
 「すべて・・・・・・来れ」という、
 世の始めから、
 彼に予定されているように見えるこの言葉を、
 彼は語り給う」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第一部 招待)

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助け。

キェルケゴールによると、
キリストは、〈すべて〉を助け〈ようとする〉。
しかし、
キリスト者になるためには、躓かなければならない。
そして、躓いてこそ、信仰が成立する。

ということは・・・、
やはりキリストは、すべてを救いはしないのではないだろうか、また、
キリスト教において救われる為には、自己が非常に重要な契機になるのではないだろうか。
すなわち、自己が救いを求めねば、救われぬということ。
この救いを求めるその仕方も、
真の意味の躓き(これはどういった意味か)による信仰でなければならぬ、
ということ。

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「自発的な愛」
「愛」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第一部 招待)

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「われに来れ」

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「己れの価値を尊重することをすべて断念し、
 自己を忘れ、
 自分が助ける者であることを忘れ、
 助けられる者が誰であるのか少しも知らず、
 その人がどのような者であろうと、
 一人の悩む者がいるということだけを、
 無限に明らかに見つめながら、
 己れはただ単に助ける者であるにすぎぬというまでに、
 己れを完全に忘却している。
 このように無条件に、
 ずべての者を助けようと欲すること―――、
 ああ、この点に、すべての者との差異がある。」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第一部 招待) 


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