2017/04

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「おお、なんという驚異であろう。
 助けをもたらし給う方、その方が、来れと語り給うとは、
 なんという驚異であろう。
 なんという愛であろう。
 (中略)ここでは、助け得る者が、
 自らを申し出給うのである。
 (中略)大声で、一般に触れ給うのである。
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第一部 招待)

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キリスト教が、「来れ」と、助けを呼びかけている。
俺はこの言葉に、そのまま追従するのか。
否、
追従できはしまい。

俺には、ほとんどありもしないと言って良いような、
理性が未だに残っている。
この理性で以って、キリスト教を信仰することができるのか。

できない。
これこそ「躓き」である。

ではこの信仰を、  に置き換えよう。
   に置き換えよう。

俺は、信仰することができるのだろうか。

これこそ覚悟である。
この覚悟が足りない現在、
俺は  を信仰する、あるいは、   を信仰する資格などなかろう。

ただ、〈宗教〉的態度についてキェルケゴールが正しいとすれば、
この〈資格のなさ〉こそ、つまり、
信仰への入り口、そう述べて過言であれば、
それなしでは信仰へと辿り着けないところのそれ、
である。

そうであるなら、
あらゆる理性で以って、
  と、その   が、信仰に足り得るかどうかの証拠立てをせねばなるまい。

しかし、ただ、結果は目に見えている。

信仰に足り得るし、
信仰せねばなるまいのである。


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