2017/07

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「どうぞ私共があなたを、あなたが現在においても、過去においても、また、将来栄光の中に再び来り給う日まであり給う如きものとして --- すなわち、躓きの徴として、また信仰の対象として、見奉ることができますように。」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第一部 祈願)

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俺が本書を真に理解する = 〈重複する〉可能性は、極めて低そうである。

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すなわち、信仰のためには躓きが必要なのであり、また、躓いたからこそ信仰が信仰たるのである。
(ただ ---、俺の解釈が正しいならば ---、ここにはキリスト教の本質的な〈矛盾〉がありはしないか。
 すなわち、キリスト教がすべてを〈救う〉のであれば、
 キリスト教において、また、さらには、キリスト教以外( = 異教)において、
 決して〈躓き〉など、成立しては〈ならない〉のではないか」

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否。このような〈考え〉は、キリスト教を信仰していない者による〈戯れ言〉である(ただ、ここでも、〈非 - キリスト者〉であるが故の、矛盾点を指摘したい欲求が生じる)。

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〈キェルケゴール - 俺〉
〈キェルケゴール - レギーネ〉

〈俺 -   〉
〈   - レギーネ〉

この辺りの〈思い〉、あるいは、〈考え〉を、整理すべきである。


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