2017/04

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「しかし、一人の信仰ある者がいる限り、彼が信仰ある者となった以上は、彼もあのイエスと時を同じくしてこの世にあった人々と同様に、イエスの現在と同時的であったに相違ないのである。また彼は、信仰ある者として、いつまでもイエスと同時的であるに相違ないのである。この同時性というものが信仰の条件であり、さらに厳密に定義すれば、信仰そのものである」
(キェルケゴール 著、井上良雄 訳『キリスト教の修練』(新教出出版社)第一部 祈願)

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「信仰」の定義。「イエスと同時的であること」。俺が  を〈信仰する〉こと。真に信仰することによってのみ、俺は  と、その客観的歴史性を〈越えて〉、同時的であることができる。

      、      、      。

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キェルケゴールの著作を読むこと、これは俺にとって、この2年間が経った今、2つの意味を有する。
すなわち、キェルケゴールの思想を、彼の客観的 - 歴史的事実から引き剥がすことで、俺にとって固有のそれとすること。
このことこそ、現在の、過去の、そしてこれからの、自分自身にとって最も意味(意義/影響/有効である)のある読みである。
ここにはあの煩わしい、文献解釈など、一切ない。
言わば、キェルケゴールの言葉を借りるなら、俺自身が「詩人」としてキェルケゴールを読むのである
(ただ、俺が詩人という場合、キェルケゴールの想像する「詩人」とは雲泥の差があるのだろうが。

もう1つは、キェルケゴールを「解釈」すること。
すなわち、文献学的に検証すること。
このこともまた、俺にとって有意味であろう。

俺はこの2つの「読み」の間で揺れている。
いずれにせよ、俺の「読み」が浅過ぎる/鈍過ぎるのは、避けられぬ事実である。


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