2017/11

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(俺はこの本を読みながら、
 本の解釈の無限性を、
 意味の無限性を感じている。
 この本は、古本だが、
 前の所有者の傍線が弾いてある。
 その傍線が、ほとんどことごとく、
 俺の観点とズレているのだ(つまり、哲学的思惟には、まったく引かれていない)。
 俺にとっては、以前の所有者の傍線が、
 ジャンケレヴィッチの真意からズレている気がする
 (つまり、繰り返すが、哲学的思惟には、まったく引かれていない)。
 しかし、前の所有者にとっては、
 傍線を引いた箇所が、
 実存として本質的なのだ。
 ちなみに、俺はこの傍線に苛立ちながら読んでいる)


−−−−−

「生の生成において、
 先にわれわれは器官−障碍の逆説論を認めた。
 生の生成は存在への連続的な到来であり、
 そしてそのまま(それに付け加えてではなく、そのまま)
 非存在への連続的な歩みだ。」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第4章「老化」 1「存在への到来と衰頽による裏切り」)

つまり、人間の生は、本質的に矛盾である
(そして、あらゆる人間的認識、
 否、認識は実存にとって人間においてしかありえないから、
 あらゆる認識が、
 人間の生から出発するなら、
 真理とは、すべてとは、
 そもそも不条理である。
 不合理である)。

−−−−−

「人生は確かに一つの意味を持っているが、
 その意味は一つの無意味によって妨げられている。
 しかも、
 その無意味が意味の条件となっているのだ。
 時がたつにつれて、
 意味の中に含まれている老化という逆の意味が、
 生成の表面にますます強くおし出てくる」

「《人生の意味》は、これを捜すことを受け持つ人間にとっては、
 意義と方向とを同時に意味している。
 われわれの存在の虚無(中略)、
 そのような死がいかにしてこの人生の意味を表明することができるだろうか」

「生成に一つの意味がある(中略)、言い換えるなら、生成がなにかになる」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第4章 1)

ここに書かれていること、
つまり、死による意味の無化については、
次の点に留意しなければならない。
すなわち、
死によって意味が無化されるのは、
あくまで1人称にとってであり、
2人称にとっての死は1人称にとっては意味の無化ではない。
このような観点からは、意味は生成ではない。


−−−−−

「労働者は働くのに飽きることが在りうる(中略)。
 だが、被造物一般、老人は、このような意味で、文字通り、
 生きることに《飽きる》だろうか。
 存在することも、一般に生成することも、元来、
 疲れることではないし、
 実存することは《難し》くはない。」

「存在の連続は、それ自体においては、
 この世で最もやさしいことだ。
 難しかったり、疲れさせたりするのは存在の実体ではなく、
 実存の仕方であり、実存の様態だ」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第4章 1)

確かに、ただ存在しているだけでは、
疲れはしないし、難しくもないかもしれない。
ただしそれは、
存在の、人間存在の最も本質である実存という観点を抜いた、
空虚で観念的で抽象的な存在概念にのみ正当である。
しかし人間存在は、
抽象的な概念ではない。
人間存在は直接的に様態である。
実存の様態として難しかったり、疲れたりすることは、直接的に、
実存することが難しい、ということになりはしないか?
そう、なるのである!


−−−−−


「老化はわれわれに少しずつ死をあかすというのだろうか。
 このような錯覚は、
 とくに聖ベルナールやベルルのように死を一つの生とする人々にとっては、
 正当なものとなる。
 《というのは、われわれが生きているこの生は死なのだから》と、
 聖ベルナールは言った。」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第4章 2「死に対する準備。もし生が連続する死であるなら・・・」)

確かに、「生は死である」とう考え方は、
実存に絶望から由来する悲しみと喜びとを与えることには、
有効である。
しかし、
ここでジャンケレヴィッチが「錯覚」と言っていることに、注目しなければならない。

「オラトリオ会の創設者においては、
 日常の一命題となった。
 《生きながら、そして、
 生まれながらわれわれは死ぬことだろうし、
 また、生への第一歩は死への第一歩なのだから(後略)》」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第4章 2)

しかし! しかしである!!!

「いかなる瞬間においても、
 生命が見捨てること憔悴した肉体を通して死はほんの少しも現れることはないのだ」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第4章 2)

正しく!
その通り!
だがジャンケレヴィッチは、
このような死は決して本質的な死ではないということを、
見過ごしている。
すなわち、
死は先ず以って2人称の死だからである。 


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