2017/04

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「時の不可逆性を語って、
 われわれはほぼ次のように言った。
 意志は自らおこなったことを解消することができるが、
 おこなったという事実を滅ぼすことはできない、と。
 行為の対象は決して決定的ではないが、
 おこなったという事実は滅ぼすことができない。
 道徳上の意志は、
 欲することすべてをなしえ、
 すべての欲せられたことは、
 無限に、
 その力にとって可能なことである点では、
 たしかに全能だ。
 これに反して、
 自分自身がなしたという実効性に対しては全能の意志もなにもできず、
 あわれにも無力な姿を現す。」

「ひとたび欲したら決してこれを《解消する》ことができない。
 これこそほとんど全能な意志の唯一の事実性だ。」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第3章 7)

−−−−−

時の不可逆性−−−、
起こしてしまった事実は決して消えない。
それが罪であるなら、
それこそ死ぬまでそれを負い続けなければならないのだ。

−−−どのように具体的に?

愛が不滅であると!

主観の内から他者へと永遠に向け続けること!

−−−−−

「宇宙内部の現象は無限に説明がつくが、
 宇宙の総体、宇宙一般の詳細は把えられない。
 なにものかがあるのはなんの役に立つのか。
 そしていつから。
 なにもないよりむしろなにかあるのはなぜ。
 これら形而上学上の問いは、
 ショーペンハウアーによれば、
 実存の不条理を剥き出しにするのに役に立つにすぎない。」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第3章 7)

−−−−−

宇宙、存在、ショーペンハウアー・・・、
!!!
そもそも問うこと自体、通俗的には明確に役に立たないのだ!
消極的なのだ!
しかし!
この消極性こそ、
己れの実存を実存として実存する契機なのだ。
問うべきである!
絶え間なく問うべきである!

−−−−−

「われわれは次のように言おう。
 人は同時に死の外と内にいる。
 人は、
 死について抱く超越的意識によってその外にあるが、
 考える存在がそれ自体死すべき存在である点、
 死の中にいる。」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第3章 7)

−−−−−

「実際には、
 始源は終焉ほど悲劇的な両棲性を帯びてはいない。
 死は最後の瞬間に生の形相を措定するが、
 この形相を措定するためには、
 生を否定しなければならない。
 死は同時に肯定と否定とを表明する。
 これに反して、
 誕生は二度肯定の言葉を発する。
 誕生は肯定し、
 そして肯定するものを確認する。
 つまり誕生は生を二重に措定するのだ。
 まず、死と同じように、
 誕生は生を限定する局限であり、
 ついで、誕生は生を扼殺するかわりに存在せしめ、
 生命の連続のの端緒をつくるのだから。」
(ジャンケレヴィッチ 著、仲沢紀雄 訳『死』(みすず書房)第1部 第3章 8)

−−−−−

死を通して、
生の肯定生を記述するという、
この積極性−−−、

(しかしこの積極性は、決して、快や幸福と直結するかと言えば、そうではない。)

ジャンケレヴィッチは、
誕生の生物学的な定義/基準に対し、ある意味、無知だ。
それは医学という名の科学が発達していなかったのだから、仕方ない。
誕生をどの時点に置くのか、
受精した時点か、
妊娠が発覚した時点か、
出産した時点か。

誕生は、それが産む者における意識に到達した時点である。
つまり、妊娠が発覚した時点である。
誕生の本質が、2人称にあるなら・・・。
事実として、1人称の誕生も死も、
実存することができない限り、
2人称の誕生こそ、
本質的な誕生である。
 


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